清野祥一の作品は、土と火の出会いによって生まれるという意味で、「やきもの」である。ただ、実用性のある「器」物から遠いというだけでなく、陶芸界とは関わりのないところで作品制作と作品の提示がなされてきた。活動の場、作品形態という点で美術作品とよぶ方が似つかわしく、実際にもそのように理解されてきたと思う。しかし、少し詳細に検討するなら、日本における美術と陶芸の区分のあり方に波紋を投げかける作品であることや、伝統と現代の関係という視点からも興味深い作例であることが知れるだろう。
 彼の活動のもともとの出発点には伝統的な陶芸への関心があった。学生時代に瀬戸の陶芸家に短期の弟子入りをしただけでなく、有田、唐津、萩など、西日本を中心に各地の陶芸家を訪ね回っている1973年、24歳の時に、ほとんど独学のまま神奈川県厚木市の近郊で制作を開始する。ここで焼かれた最初期の作品は、オブジェ的傾向の黒陶作品であった。初期から器でなかったのは、ひとつには当時の陶芸界にすでに器にとらわれない造形的な作品分野が確立していたことが背景にあると思われる。
 制作を開始するに至るまでの1970年前後にはジャンルを超える文化的うねりのようなものがあり、ジャンル間の交流や相互影響が活発化した時期であった。清野も陶芸だけでなく、現代美術や現代演劇、現代舞踏などに共感をもち、とくに『大駱駝艦』の舞踏家たちとは直接的な関わりをもったという。彼が「やきもの」を抱えて現代美術の領域に参入したのには、こうした時代の空気が大きく影響したのではないだろうか。また、日本の陶芸界の制度や因習を避けたいといった意図もあったであろう。ともあれ、「やきもの」への関心が、そのまま陶芸界へとは結びつかず、彼を現代美術へと向かわせたわけである。
 1975年には愛知県に転居し、活動を継続する。作品は初期のオブジェ的傾向が消え、次第に造形を切り詰めたシンプルな形態となり、その後も一貫した清野の作品傾向となる。「土の自己主張を抑える」ためと彼はいうが、その意味するところは、可塑性に富む土の、これは土の一特質であるが、その特質にのみ従って器とかオブジェの形が造られてしまうことを嫌ったと見ていい。逆の面からいえば、安易に形を造る作家の造形行為を抑制するねらいがあったと思われる。土と作家のそれぞれの自己主張を抑え、土と火の関わりの中から生まれる「やきもの」の特質、造形よりも、あくまで火を通す「窯変」へのこだわりが強まったと思えるのだ。素材が様々に色調や形などを変える「窯変」、清野の言葉に従えば「変容」が、彼の創作の基本となったということである。
 1979年の作品ではさらに明確になる。同じ大きさの直方体の「やきもの」を複数積み上げた作品への展開であり、ほとんどインスタレーションといってもいいような作品である。しかし、厳密には展示空間への対応という点に最重点があるのではなく、複数の直方体「やきもの」の集積の中で、個々の単体の焼き上がりと単体相互の関係性の方に比重がかかっていると見ていいだろう。日本国内9ケ所の土が取り寄せられ、焼かれているが、各地の土の質的差異を反映させた作品となっている。
 1981年には、工業的な用途のために調合された土、白雲石を採用した作品を発表している。自然採集の土ではなく、ファインセラミックであり、陶芸的には異端ともいえそうな方向を探りはじめる。以後、1984年からは抗火石、近年は黒鉛といったように、清野の土は拡大されてきた。陶芸家が各地の土を探り回るように、清野は様々な現代の土を探り、「変容」を基軸に独自の世界を切り開いていくのである。彼の土は窯の中で激しく膨らみ、複雑に変色し、強烈にひび割れる場合もあり、「窯変」の一般的な常識枠を大きく超えた変容を見せている。また、自分自身で焼成する作品が圧倒的に多いが、工業的な焼成によって生み出されたファインセラミック素材を転用する作品も一部ある。「やきもの」に対する清野の解釈は広く、姿勢はきわめて自由というほかない。
 彼の伝統陶芸への関心をもたらしたきっかけの一つは、本阿弥光悦の茶碗『不二山』に魅せられたことであったという。茶碗の下半身の窯変が特徴的な、国宝『不二山』である。光悦だけでなく、これまで多くの人々が窯変に創作の霊感を求めてきた。作家の行為だけでは不可能な、土と火の出会いの気まぐれが大きく関与する偶然の美であり、作家は窯から作品を取り出すまで、土と火にすべてをまかせ、作品の生成を待たねばならない。これは、しかし、単に偶然性が作品の制作手段になるということだけを意味するのではないだろう。清野は、地球規模でおきている自然の変容と窯の中での出来事との間に深い関わりを感じ取っているようだ。ここでは作品に映し出される自然について考えておかねばならないのである。土と火にゆだねるという一種の無作為によって、作品の生成の中に自然が宿るといったらいいだろうか。窯の中の出来事は、その結果を待つ者にとって、自然からの啓示を受ける象徴的な儀式なのかもしれない。
 陶芸というジャンルが重要なのではない。重要なのは、土と火に交わり、自然の啓示を感受しながら作品を生成する術と精神である。したがって、陶芸が窯変の美への洗練された感受性を今日まで伝えていることに注目すべきである。それが文化の水脈、文化の厚みであって、伝統といってもいい。陶芸から限りなく遠いところにきた清野だが、この感受性、術と精神を受け継いでいることでは同様なのである。ただ一般の陶芸家とは異なった方法で展開しているにすぎない。同時に、文化的に根無し草の状態にある日本の現代美術の脆弱さを超えて、清野作品は伝統からの断絶ではない現代美術のあり方を指し示しているのではないか。

三頭谷鷹史(美術評論家)