火涼のをしへ

 みてきたばかりの映画の感想をきかれて、「よかった」とか「みにゆくほうがいいよ」と、たった一言ですませるところにこそ、じつは馬鹿にならない生きた批評のやりとりがある。語簡にして意達するのは批評のいろは、色はかさねればかさねるほど濁ってくる。饒舌はなにもいいたいことがないときの手品の種にとっておいたほうがよくて、批評がその相手にたいする親しみをまるごとかたろうとするなら、かえって寡黙になってしまうというのが自然、これはぼくのこととして、たとえば清野祥一さんの作品をまだみたことのないひとにどうと尋ねられれば、たぶんそんな風になるだろう。「いいからみてみれば」。その際にこめたつもりの気合が神から神につたわるにはこれで十分だし、あとはみてからのことというわけだ。
 だいいち余計€おしゃべりをみずからに禁じ、ただしずかにそこにいようとしている作品にたいしての礼儀というもので、吐く息すう息もおぼえていない、うわのそらの、よくいえば忘我でも、じつはどうだっていい藝術意識その他にしばられ、平常心をわすれたしかたで仕事をすることから千歩もはなれて、昼はひとつくり夜は神これをつくる自然の営みのおおきな干満/緩慢の律動にできるだけよりそいたいとひそかに願いつづける手で、やがて跡ものこさずきえてゆくのを承知に波打際で砂の城をきづくひとの、無となっても或いは無に還ることをいさぎよくうけいれなければ生れない或る持続するちからがそこにある。
 ところでそういうかたちの清野さんの作品にであうために肝腎なのは、みてみすぎないということ。もっと思いきっていうと、みないことである。みながらみない。みないようにみる。ようするに、そこにないものをあるとおもわせる幻術はかれの好むところではなくて、あらかじめ清野さんの手で封じられているのだから、あとは妙な空念仏におどらされない、不断日常につながった眼のままでいられるかどうかだけのはなしになる。そう、流れのふくらみに率直にしたがうふつうのこころさえあれば、あとはむしろ邪魔になるだけである。なぜなら、清野さんの作品といえどもみられることを拒んでいるわけではないが、それよりもっと、ただそこにあるようにあることを願っているからである。そしてただそこにあるのをみるとは、それがそこにあることの気に応じる、感じる、といいかえてもよくて、それならそのときぼくらの視線は、表面をつらぬいて事物の真相にせまろうとする鋭くとがった姿を和らげる春風にしたがい、とおい地平線までみとおせる透明な空気にうるむ晴眼のごときものとなろとする、といえばおおげさすぎるだろうか。富士に月見草が似合うのよりもっと、それは太古の褶曲の厖大なエネルギーと時間をそのままみせてくれる断崖の地層や、無量の流氷が犇めく北冥の果ての海や、ガンジスの河の砂の数よりおおい光の粒がふってくる南の国の一望千里の草原に似合うので、ぼくはぼくで空想をひろげ、清野さんの作品を無人の砂漠のまんなかにころがしてみたり、満月の夜にゆれる緑の葉群でつつんでみたりして楽しんでみるのである。そしてそのとき、清野さんの作品たちが無関心の関心をよせてくるようすをたしかにみたような気になるのである。
 ともあれ、万物必滅のはかなさを、ひとつの誕生以前にすでに知ってしまったものの、つつましい潔さからくるのか、どんな風にみられてもかまわないと無造作にそこにあるものたちに対したとき、視線のもっともとおい記憶が、ぼくらを生みだした自然の荒魂をゆくりなくも思いだすということであるはずだ。意味と無意味が玄の玄からやってくる風でかすかにふれたり離れたりしている。ともあれ、せかいの中心はひとにあるのではなく、ひとの中心に自然があるとするながい思想の伝統に清野さんもつながっているのだろう。だから垂直にかさねられ縦横にひろげられ、いくつもに組合わされても、その構造らしいものは清野さんを育ててくれた現代美術への挨拶にすぎない。つくるのはわたしではなく、わたしを通ってゆくちからの線であり、みるというのも又わたしである空のごとき遠さであるとかんがえるこころが、清野さんと無縁ではないとしたら。
 しかしそれだけではない。遠さを感ずれば感ずるほど近さについてかたりたくなってくる。すでに清野さんの作品において構造はそんなに大事ぢやないといった。イデアが地上になげた影をさがすことよりも、もっとざらざらした大地の一片をなでまわすことのリアリティをよしとしているからでもあって、だからぼくらの視線もまたみるという機能のもっとも初源にさかのぼり、触覚との未分の領域へと誘われるのである。つまり清野さんの作品は触れられたがっている。そして触れられたがっている作品にこっちも触れようとすることほど自然なこともない。いったい、みるとは触れることだという命題は、清野さんのばあい、ふつうより概念をおおきくとったときの「焼く」という行為にふかくむすびついている。ようするに、清野さんの手からつくりだされるすべては一種の焼物なので、聖痕におどろく信ふかいひとのように、火の洗礼とも傷跡ともみえるつちの膚にそっとふれてみて魂の温もりを恵まれることになる。もっと幸福なひとなら、地表の奥ふかくで日ごと夜ごとやすむことなくつづく、かたちあるものの黙示録にたちあえるというもの。蜜蝋のゆくえをみえない果てまで追いつめるデカルトの、物の本性をめぐって無思量底を思量する思索にさいごまでつきあう頭がなくても、ただ手を信じて修練に修練をかさねるこころがけさえあれば、せかいはその秘密の真言をおのづからおしえてくれるということを、すきな焼物との対話や火とのながい交渉のすえに、清野さんはしかと感得したんぢやないか。
  まあそれはそれとしてもういちど初心にかえって、だいじなことだけをくりかえせば、清野さんの作品は、ひとつの壷のように、いや、いっぽんの樹木をみるようにみればいい。そしてみたらすぐわすれること。わすれるという智恵がはたらかなければさきにゆけない。文台ひきおろせばすなはち反故。執着からはなにもでてこない清野さんの作品をぼくらの手でいっそう親しい作品に変身させるための、これはなんというか、火と起源をともにするエチカである。

東 俊郎