清野祥一さんからの初めての通信は、1978年11月13日付消印のある、グループ展案内状。村松画廊(東京・銀座)で11月27日から12月2日まで開催された第3回「反射系」展である。この会期中にちょうど上京の機会があり、案内状を頼りに村松画廊の階段を上っていったことを記憶している。このグループの成り立ちについても、メンバーの作家たち4人の名も全く知らなかったが、発信人の清野さんの住所が名古屋近郊の長久手町なので、多分、どこかで私が現代美術に関心を持っていることを聞き及ばれて、案内をいただいたのだろう、と勝手に考えていた。
この時の作品は黒陶系のオブジェで、「プール」と名付けられた横長のもの。翼のように対稱的に左右に張り出した板状の部分が水面を表徴しているだろうか。また、その中央部には足先のような一対の形象物が相接して互いに方向を逆に配されている。あたかも水泳でターンをした時の足先のように。
他の3人の作品はともかくとして、清野さんのこのような作品と「反射系」というグループ名がどう噛み合うのか、十分理解し得たわけではなかったが、意識のはからいを待つことなく、外界の状況にすばやく反應し、それを形象化することをねがうグループ、ということなのか、などと考えながら会場を後にしたのを覚えている。この時、清野さんに会った記憶がないので、恐らくゆき違いになったのだろう。
その後、清野さんの新作発表に立ち会い、同時に、人柄に直接触れることになったのは1982年、ギャラリー・ウエストベスにおける名古屋で最初の個展の時だった。
白い直方体は白雲石を素材として焼き上げたもの。それを長徑方向に2本継ぎ足して、われわれの胸の高さほどとし、それを左右の壁にびっしりと立てかけたインスタレーションの作品だった。その対稱性を保つはざまを歩いたり、その只中に立ち止ったりすると、除雪された道の両側に残る高く凍った雪壁にも似て、清冽さが響き合う雪国の空間に身を置いているような錯覚にとらわれるのだった。その頃清野さんは、焼成した長方体を一定の規則性に從って整然と階段状に積み上げる、など、いさぎよい古代ギリシャ的建築空間の一部を思わせるようなインスタレーションを展開していた。
この時、清野さんその人と初めて会い、直接言葉を交わした。やや低い声で語る言葉の重さにやや寡黙な感じを受ける人もあろうが、それは無駄な説明の尾鰭を断ち切って核心部分をきっちりと述べる、という語法が身についているからであって、ちょうど展示されている白い長方体の表面のような、誠実でさっぱりした感触の人だというのが第一印象だった。今ふり返ってみると、村松画廊での作品の初見から数えればすでに20年、清野さんと親しく言葉を交わすようになってからもすでに17年。様々な試みによって作品の姿には変遷がみられるのだが、その中心に流れる清野さんのつねに旺盛な創作意欲と清新な人柄は全く変わることなく現在に至っている。
その折、私は意外なことを清野さんから聞いた。それは清野さんと私との接点が村松画廊で作品と出会った時を更に5〜6年遡る時点にあったというのである。1965年から76年まで、私が編集して間歇的に出していたリトル・マガジン「点」を東京・下北沢の書店を通じ購読してもらっていたのである。おそらく1970年代に入って間もなくのことだったのだろう。60年代、70年代は様々な芸術領域がジグゾーパズルのように組み合い、互いに複雑な接点を持ち合った時代だった。この小雑誌は創刊号以来、装丁・カットを加納光於さんに担当してもらい、俳句、詩、美術、音楽など、当時各芸術領域の最前線に立っていた人たちから毎号寄稿を得ていたもので、東京でも詩書を取扱う2、3の書店から販売の希望があった。從って今でも時々、思わぬ人から「点」の購読者だった、という話を聞くことがある。清野さんもその一人だったのである。ひょっとすると当時さかんだった暗黒舞踏公演では同席していたかも知れないのだ。清野さんのすべての芸術領域への幅広い関心に驚きながらも、あのカオスの様な周辺のものをどう切り捨てて、清野さん自身のあの簡潔な創造世界を出現させて来たのかーまた清野さんへの新しい興味が湧き上って来るのだった。
1980年代終りから90年代にかけてこの作家は、素材に黒鉛を多用するようになる。厚みが微妙に異り、表面の火熱の痕跡も様々な方形板状單体物を多数焼成し、これで地表を覆う。また黒々とした古代人の墓石か石棺を想起させる外形をもつけれど、内部は充実体であるセラミック・オブジェが一定間隔を置いて整然と配置される。こうしたインスタレーションが次々と提示されて来た。それを構成する個々の單体物に焼成段階で与えられた形象、表面の感触・色調の微妙な差異は一定の規則性に從った空間配置によって、はじめて明確化することが出来、またその配置を換えることによって万華鏡のように空間の様相を変化させうることを、展観のたびに私たちにあらためて認識させてくれたのだ。最近では方形板状体の表面に植物的な表情を与えたり、壁面を覆う幕に河口付近の映像を転写するなどの試みがなされ、次第にこの作家の関心が、自然環境そのものを作品にどう取り込むか、という方向の模索へと変わりつつあるのを感じさせてくれる。
これまで出会った清野さんの作品の流れをたどって来たが、土をはじめとする様々な造形素材に火熱をかけるという作業過程のためには、居住地までも変える、という古来からの陶芸家たちの生き方に殉じながらも從来の陶芸のありようから極めて遠い辺境をなお探索しつづける清野さんの一芸術家としての態度に、私はあらためて大きな敬意を抱くのだ。
清野さんの近業は、一旦削ぎ落とした「やきもの」の属性の代わりにこれから何を身につけるか、という問題をはらみつつあるように思われる。益々期待の高まるところだ。